神仏習合の意味
神道は日本という国が生まれたはるか昔から続く自然崇拝を基にする思想で、やがて大陸から伝わった仏教と歴史的な背景が複雑に絡まりながら、神仏習合(神仏混淆:しんぶつこんこうともいいます)として長く続いて来ました。
これが、日本人の宗教観のすべてだと思います。
ところが、時代の流れ、歴史的な背景が強く関わってくるのですが、明治元年(1868年)に明治維新政府は神仏分離令を発令したのです。
それは、千年以上にわたって集合されてきた神と仏を別け、神道国家として日本は進むという宣言です。
神仏分離令
実際のその宣言は以下の様なものでした。
一、神社では仏像を神体としてはいけない。神社内にある梵鐘、鰐口、仏具等、仏教関係のものは除去する。仏教的建造物も撤廃する。
一、寺院が神社の祭祀に関与してはならない。神社での仏事は行わない。
一、従来、神社の管理・祭祀は別当とか社僧と呼ばれる下級僧侶が行っていたが、それらは退職するか、またはその名称を神主、社人等と改める。つまり、僧侶を廃業するか、廃業したのち神主・社人として再就職する。
一、神社では権現、菩薩、牛頭天王などの仏教後の名称を廃止する。
おだやかな話ではなく、ちょっと信じられないかと思うのですが、貴重な文化財が失われた神仏分離令に相乗し、地域によっては激しい仏教の排斥運動にまでつながり、この時にはかなりの数の寺院が取り壊されてしまい、仏教的な遺産が失われてしまったといいます。
明治維新の徳川幕府を倒すという時代の流れの中で、歴史に翻弄された神道と仏教の姿の一部をを垣間見ます。
神仏習合は本当になくなっったのか?
とは言え、千年以上も続いた日常がそう簡単になくなるとは到底思えないのです。
私などつい先日まで、神道と仏教の違いなど全く知らなかった者です。お正月には初詣で神社に参拝し、人が亡くなれば仏教の葬式が一般的、これが日本人の思想だと思っていました。
つまり、神仏習合という千年以上続いた当たり前の潜在意識は、たかだか明治の時代、百十数年では消えてなくなる事はないということだと言えます。
私の身内は四国の地に多いのですが、お願い事をするには「神様、仏様、ご先祖様」と手を合わせ、「神も仏もない」と嘆く姿をみて育ったのですから、両親や祖父母を始め一族から教えられたのは神仏習合以外の何者でもありませんでした。
神仏習合の名残
こうして、各地の社寺に導かれる様に出かける様になって、何年かが経とうとしていますが、お寺の中の鳥居や神社、隣り合わせにある神社とお寺、神仏習合の時代の痕跡は普通に見つけることが出来るようになりました。
本地垂迹(ほんじすいじゃく)といった考えなど調べれば調べるほど、あちこちにお参りすればするほど私の中では、神仏習合はずっと続いているんだなと感じることが多いです。
四天王寺の大鳥居
四天王寺の大鳥居です。
四天王寺を守るための鳥居だったそうで、私などは「鳥居があるのが神社」と決めつけて居ましたが、鳥居が神社のものと決められたのは、明治の神仏分離以降の話だと言います。
そもそも、鳥居には「神様や仏様がいらっしゃる領域への入り口」という意味があって、神仏習合の時代はもっとゆるく、今とは違った鳥居の意味があったんだと学びました。
住吉神宮 新羅寺跡
住吉大社の境内には住吉大社の神宮寺跡として石碑が建てられています。
天平宝字2年(758年)に住吉大社の神宮寺として建立された、新羅寺という薬師如来を本尊とするお寺だったといい、住吉大社と共に興隆を誇ったものの、明治の6年に神仏分離令を受け、廃寺となりました。
この話が遠い昔の話でないのは、西塔は、海の向こう阿波国の四国のお遍路さんで有名な切幡寺の大塔に、薬医門は荘厳浄土寺の表門に、回廊の一部は生根神社の香梅殿として現存しいるのです。
そういう話を知ってそれらの寺社にお参りに行くと、何処か感慨深いものがあるものです。
興福寺と春日大社
お参りしたことのある方も多いのではと思いますが、奈良公園の興福寺と春日大社は、藤原氏の氏寺と氏神で、日本最初のお寺の鎮守の神様だと言います。