日本仏法最初のお寺の建立
四天王寺は推古天皇元年(593)に建立されました。
飛鳥時代の有力な豪族であった、排仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子の間での仏教を巡る争いが四天王寺の始まりです。
合戦の際に、蘇我氏についた聖徳太子は、形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、この戦に勝利したら、四天王を安置する寺院を建立して、この世の全ての人々を救済すると祈願し、戦いが終わった後に四天王寺は日本初の官寺として建立されました。
官寺というのは、いわゆる管が維持するお寺で解りやすく言うと国営のお寺のことです。
寺院として興隆を誇った四天王寺も、明治の時代になり、神仏分離令によりそれまで四天王寺に所属していた神社が離されました。
昭和9年には室戸台風で五重塔、金堂は傾斜破損、仁王門も壊滅して再建されたのもつかの間、大阪大空襲により境内はほぼ焼けてしまいました。
その後、次々と再興されて、現在は飛鳥時代の様式を忠実に再現して、古代の建築様式の姿を今に残しています。
戦後まもなく、太子創建のお寺であることから、天台宗からも独立して、和宗を創立しました。
聖徳太子
聖徳太子の名前は日本人なら皆が知っていると思われる有名人ですね。
ちなみに、七種類ものお札の肖像画としての登場回数は、もちろん聖徳太子が一位です。
五十歳で亡くなるまでに、「冠位十二階の制定」や「四箇院の制」など、様々な偉業を成し遂げているのはご存知の通り、学校の歴史の授業でも習ったのでは無いでしょうか。
一度に10人の話を理解した、など、常人離れした逸話も多く、「聖徳太子は想像上の人物である」という意見もあるようで、今持って、議論が続けられています。
四天王寺式伽藍配置
伽藍配置とは寺院の各お堂の配置のことを言います。
四天王寺の伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれ、南から北へ向かって「中門」「五重塔」「金堂」「講堂」が一直線に並ぶもので、それらを回廊がとり囲み、日本では最も古い貴重な建築様式です。
源流は6~7世紀の大陸に見られる形だそうです。
大師会と太子会の縁日
毎月21日と22日には四天王寺の名物、縁日が賑やかに行われます。
弘法大師の命日21日を大師会、聖徳太子の命日22日が太子会と呼ばれ、江戸時代から300年以上も続く歴史があります。
関西ではば京都・東寺の弘法市、京都・北野天満宮の天神市とともに知られる縁日です。
骨董品に古着、飲食ももちろんありますし、未体験の方は是非足を運んでみてください。
四天王寺の御朱印
御朱印専用の建物があり、そこでいただくことが出来ます。
流石に伝統の四天王寺、御朱印だけでもこれだけの御朱印をいただくことが出来ます。
四天王寺の境内紹介
広大な敷地を有する四天王寺です。私自身も隅々まで知るまでには、まだまだ時間がかかると思います。
石鳥居
四天王寺の西門、石鳥居です。他にも門はありますが、ここからお参りする方が一番多いのではないでしょうか。
ご存知、四天王寺は日本初の官寺、国営のお寺です。
お寺なのに鳥居?私自身も今もそう感じていますし、そう思う方は少なくないかと思います。
神社だと、神社名が書かれた額に、四天王寺の石鳥居には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書かれています。
これらは、間違いなく仏教の言葉ですから、神仏習合の名残としか言いようが無いなと思います。
「お寺なのに鳥居」については、四天王寺の七不思議の一つとして色んな話を耳にすることだと思います。
西門は、彼岸の頃には鳥居のど真ん中に夕陽が沈む様に作られています。弘法大師はこの地で、海に沈む夕陽を眺めながら日想観の修行をしたそうです。
日想観と言えば、すぐ近くの一心寺の御朱印の投稿でも紹介しました。この地が特別な場所であったことが伺えますね。
>>> 一心寺の御朱印と日想観
もともとは木製の鳥居だったそうですが、1294年に今の石鳥居が作られたそうです。
アクセスと駐車場情報
地下鉄・JR環状線・近鉄(阿倍野橋駅)の天王寺駅から徒歩10~15分ほど。
地下鉄谷町線の四天王寺前夕陽ヶ丘駅が一番近いです。
車でのアクセスだと、南大門前にタイムスが34台分ありますが、混雑ぶりは避けられず、周辺のコインパーキングと合わせても、特に週末は早めのお参りをおすすめします。
四天王寺以外にも、たとえば、願いが叶う堀越神社、骨佛の一心寺に真田幸村の討死した安居神社、至るところに神社仏閣が史跡があり、歴史が好きな方にはたまらないエリアだと思います。